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#ヒストリー

日本人と金 ②
(中世後期~近世)

日本人と金の関わりは古く、時には金の存在が歴史の流れに影響を与えたとも言われています。今回は中世後期~近世にかけての日本の歴史から、金にまつわるエピソードをいくつか紹介します。

戦国武将と金

戦国時代(1467年~1615年)になると、天下統一を目指す各地の武将たちが、軍資金確保のために鉱山を盛んに開発したため、日本では金の産出量が大きく伸びました。

特に有名なのが甲斐の国(現在の山梨県)を治めていた武田信玄で、領土内の鉱山で掘った金を使い、独自の金貨「甲州金(こうしゅうきん)」をつくり、流通させたことでも知られています。

同じく戦国武将の豊臣秀吉も金を好み、豪華絢爛(ごうかけんらん)な「黄金の茶室」を作らせました。この黄金の茶室は、なんと運搬可能な組み立て式だったそうで、秀吉は京都や大阪、名古屋などにこの茶室を運んでは、盛大な茶会を開いたと伝えられています。

このように、金が権力の象徴として重宝され、戦国武将がこぞって鉱山開発を進めたことで、日本の鉱山技術は格段に進歩し、日本は当時、世界でも有数の金産出国となっていきました。

幕府が金を管理した
江戸時代

その後、関ヶ原の戦い(1600年)で勝利を収め、江戸幕府を開いた徳川家康は、各地の主な金鉱山を幕府直営とし、金を独占する体制を整えていきました。

そして、膨大な量の金を蓄えた幕府は、3つの貨幣(金貨・銀貨・銅貨)をつくり、全国に流通させていったのです。この江戸幕府の貨幣制度を「三貨制度(さんかせいど)」と呼びます。

江戸時代につくられていた金貨は、主に大判・小判・一分金(いちぶきん)の3種類。このうち、大判は主に、何らかの功績を挙げた人への幕府からの褒美(ほうび)の品として使われ、通貨として一般に使われたのは小判と一分金です。小判や一分金は「金座」という場所で、まとめてつくられていました。金座があったのは、現在の日本銀行本店付近(東京都中央区日本橋)です。

時代劇などでもおなじみの小判は金と銀を混ぜてつくられており、小判1枚に含まれる金の割合は56~87%と、つくられた時期によって異なっています。これは、幕府がその時々の財政状況に応じて金の量を調整していたからです(※1)。

また、金は貨幣だけでなく工芸品や美術品にも盛んに使われました。例えば、江戸時代中期に尾形光琳が描いた「燕子花図(かきつばたず)」(国宝、根津美術館蔵)には、金箔が1000枚以上も使われていると言われています(※2)。

金の流出が、明治維新に
繋がったという説も

このように幅広い用途で使われていた金ですが、江戸時代中期になると、次第に産出量が減り始めます。加えて、幕末に海外貿易が始まると、外国の銀と日本の金が交換される形で、大量の金が海外に流出しました。これは当時の日本では、諸外国の3分の1の値段で、金を安く手に入れられたからです(※3)。例えば外国では金1グラムを得るのに銀15グラムが必要だったのに対し、日本ではその3分の1、つまり5グラムの銀で金1グラムを手に入れることができました。

産出量の減少と海外への流出で、日本国内にある金の量はますます少なくなり、幕府はその対策として小判に入れる金の量を大きく減らしました。それは結果としてお金の価値を下げてしまい、物の値段を上げる「インフレ」の状態が起き、庶民や下級武士の生活は大いに困窮、人々は幕府への不満を募らせていく一因となり、この不満が、明治維新のきっかけの一つになったとも言われています。

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