貴金属のやわらかい話

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貴金属と
茅場町の意外な歴史

「東京証券取引所」に程近く、日本の金融の中心地として知られる東京都中央区茅場町は、金や白金(プラチナ)など貴金属とも縁の深い土地。明治時代には、すでにここで貴金属のリサイクルが行われていたと聞いたにゃんことクマさんは興味津々。仲良しの博士と一緒にタイムマシーンに乗って当時の茅場町を訪ねてみました。

明治時代に茅場町で創業、
いち早く白金(プラチナ)
加工に成功した田中商店

明治時代の茅場町にやってきたよ!このころは茅場町じゃなくて「北島町」って呼ばれていたんだって。大きなお店がたくさんあって、想像以上に賑やかだなあ!
茅場町は江戸時代から商人の街として栄えていたんじゃが、明治時代になって隣の兜町(かぶとちょう)に「東京株式取引所」(現在の東京証券取引所)ができてからは、両替店や株式の仲買店など金融関係の会社が増えてきたんじゃよ。ここにある「江島屋田中商店」(以下、田中商店)も1885年(明治18年)に両替商として創業、後に地金商(じがねしょう)となって貴金属関連のビジネスを拡大した会社なんじゃよ。
地金商ってどんな仕事なの?
使わなくなった貴金属製品(金や銀)を溶かして加工しやすい地金(金属の塊)にしてから、飾り職人(金銀の加工業者)に販売する仕事じゃよ。現代風にいうと、貴金属のリサイクル業じゃな。
へえ~!明治時代にはすでに貴金属がリサイクルされていたんだね。田中商店ではどんな貴金属をリサイクルしていたんだろう?
田中商店では主にアメリカのドル金貨を仕入れて加工していたそうじゃ。創業者・田中梅吉の息子・田中一郎が横浜の外国人居留地まで出かけて、外国人からドル金貨を買って茅場町まで運ぶ。それを自社工場の職人が「灰吹法(はいふきほう※)」という方法で地金にしていた。このほかにも、田中商店では1889年(明治22年)に、当時工業用の需要が高まっていた貴金属・白金(プラチナ)の工業製品をつくることにも成功していたんじゃよ。白金は融点(液体になる温度)が高くて取扱いが難しく、当時、日本で白金を加工できる工場を持っていたのは田中商店だけだったそうじゃ。
田中商店は単に貴金属を売るだけじゃなくて、貴金属を使いやすく加工する技術を持っていたんだね。
そうじゃね。そして、その技術に注目したのが当時田中商店の近所にあった「東京電燈株式会社」じゃった。
  • ※金や銀と鉛の合金を作り、そこから再び金と銀のみを取り出す方法(金や銀を鉛と一緒に熱して溶かし、金銀と鉛の合金を作る→その合金を灰を敷いた鍋の中で熱すると、先に鉛が溶けて灰に吸収される→残った金銀を取り出す)

日本初!高度な技術力で
電球のリサイクルに成功

東京電燈株式会社は、どんな会社なの?
1883年(明治16年)に設立された日本で初めての電力会社で、今の東京電力ホールディングスのルーツとなった会社じゃよ。当時はまだ遠くまで電気を送ることが難しかったので、電力をたくさん使うエリア(銀座や日本橋など)に近い茅場町に火力発電所を設けていたんじゃ。
電力会社がなぜ、地金商の田中商店の技術に興味をもったんだろう?
その理由を知るために、ちょっと当時の東京電燈の敷地を覗いてごらん。
わあ!電球がたくさんある!
当時、東京電燈では使用済みの電球を回収していたんじゃが、その処分に困っていたそうじゃ。それで明治30年代になって、田中商店に「何とかできないか」と相談したんじゃよ。そのころの電球には白金(プラチナ)という貴金属が使われていたから、貴金属の加工技術を持っている田中商店なら、なんとかできるんじゃないかと考えたんじゃろう。処分を引き受けた田中商店では、まず、電球に使われている白金の線を取り出す作業に着手したそうじゃ。

どうやって取り出したんだろう?
田中梅吉が従業員と一緒に工夫を凝らして、電球のガラスと口金、白金が使われている金属部分を切り離すことに成功したそうじゃ。ガラスと口金は再利用できるから、廃品回収業者に買い取ってもらえることになった。そこで、田中商店では東京電燈から1個5厘で廃電球を買い取ってリサイクルするビジネスを始めたんじゃよ。廃電球の処理に悩んでいた電燈会社にとっては願ってもない話じゃから、東京電燈だけで月に20万個、大阪の電燈会社からも月に20万個引き取ることになったそうじゃよ。
うわ~、すごい数!ガラスと口金がリサイクルできるようになって、本当によかったね。でも、白金が使われている金属の部分はどうしたの?
金属部分のリサイクルはなかなか難しかったそうじゃ。まず、電球を作っていた会社に買い取ってもらえないか相談したそうじゃが、答えはNO。続いて、当時海外から白金を輸入して国内で販売していた会社に相談したところ、「純粋な白金なら引き取る」という返事じゃった。そこで田中商店では、金属部分から白金だけを取り出し、さらにそれを工業利用しやすい「線」に加工する技術の開発に取り組み、ついに1907年(明治40年)に「電球ステム白金細線」の加工に成功したんじゃ。もともと田中商店は自社工場で白金の工業製品を作っていたから、その技術力がうまく活かされたんじゃね。
よかった!これで廃電球の白金が無駄にならず、再利用できるようになったんだね!
その通り。そして、このとき開発された白金細線は後にさまざまな工業製品に活用されるようになり、田中商店が田中貴金属工業、そして田中貴金属グループへと発展していく礎(いしずえ)となったんじゃよ。その意味で、田中貴金属グループにとって茅場町はとても大切な場所なんじゃよ。
本当にそうだね。もし、東京電燈と田中商店が近所じゃなかったら、白金細線の誕生はもう少し遅くなっていたかもしれないもんね。

2024年4月、
田中貴金属の本社が
創業の地・茅場町へ!

それにしても、茅場町が貴金属とこんなに縁の深い町だってこと、知らなかったなあ。しかも、明治時代にはすでに貴金属がリサイクルされて大切に使われていたなんて、すごいなあ~。
田中商店時代と変わらず、今も田中貴金属工業は大切な貴金属を有効活用するための研究を続けているよ。2024年4月には本社を創業の地・茅場町に移転したから、また茅場町から人間と貴金属の新しい物語が生まれるんじゃないかな。これからが楽しみじゃね!
わあ、楽しみ!早速、タイムマシーンで現代に戻って、新本社を見に行こう~!

【参考文献】

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